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東京高等裁判所 昭和48年(ネ)1475号 判決

控訴人 甲野太郎

控訴人 乙村キク

右両名訴訟代理人弁護士 六川詔勝

被控訴人 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 西幹忠広

同 石川礼子

主文

原判決を次のように変更する。

控訴人らは各自被控訴人に対し金一〇〇万円並びにこれに対する昭和四八年一月一二日から支払済みまで年五分の割合による金員の支払をせよ。

被控訴人のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審ともこれを三分しその二を控訴人らの負担とし、その余は被控訴人の負担とする。

この判決は被控訴人勝訴部分にかぎり仮りに執行することができる。

事実

控訴人らは、「原判決を取り消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の陳述及び証拠関係は、次につけ加えるほか、原判決事実摘示(ただし、原判決書三枚目表一〇行目中「証拠として、」の下に「甲第一号ないし第八号証を提出し、」を加える。)のとおりであるから、ここにこれを引用する。

(事実上の陳述)

一、被控訴人

控訴人らの後記主張事実のうち

(1)  について、争う。

(2)  について、控訴人甲野太郎が外地で知り合った女性と一緒に帰国した事情についてはこれを争う。同控訴人が外地から引揚当時同棲していた女性は芸者であり、引揚後も熊本県大津の同女の実家であたかも婿養子気取りで同棲を続けていたものである。

(3)  について、争う。控訴人甲野太郎は帰国後その事実を被控訴人に知らせず、被控訴人としては生活費をうるため上京して働く一方、被控訴人の母が同控訴人の消息をたずね、昭和二三年三月ごろ、同控訴人が帰国し、前記女性と同棲していることをつきとめ被控訴人に知らせてきたので、実家に戻りやっと同控訴人に会うことができたものであって、むしろ被控訴人において同控訴人を探がしていたものである。

(4)  について、控訴人甲野太郎が昭和三〇年ごろ単身雲仙に赴き観光案内業をはじめたこと、昭和四三年ごろから被控訴人と姫路市で同居するようになったことは認めるが、そのほかの事実は争う。同控訴人は単身雲仙に赴いた後、同所で他の女性と同棲し、転々と住所を変えて被控訴人に所在を明らかにしないようにしていたものである。また、被控訴人は片山津温泉に行ったことがあるが、これは昭和四五年三月ごろでなく、昭和四四年一二月ごろの一回だけであり、これはカラーテレビを買ったことによる販売店の招待旅行で近所の老人達五名ばかりと一緒に行ったもので、丁村某という男性と行ったことなど全くない。控訴人甲野太郎は、被控訴人が丁村某と関係があると邪推し、ことあるごとに被控訴人に暴行を加えるので、被控訴人はこれにたまりかね家を出たものであって、このとき被控訴人が所持していた金員はわずか金三千円ぐらいにすぎない。

(5)  について、丙川春男が控訴人ら方に離婚届の用紙を持参し、控訴人甲野太郎がこれに署名押印した事実は認めるが、そのほかの事実は争う。丙川春男は被控訴人と控訴人甲野太郎との夫婦関係の仲介に入ったにすぎず、このとき同控訴人はすでに控訴人乙村キクと同棲生活に入っていて、右丙川の持参した離婚届の用紙にすすんで署名押印したものである。右丙川は離婚届に控訴人甲野太郎と被控訴人との署名押印をえたものの同人らには子供もあることを考慮し、同控訴人が控訴人乙村キクと別かれて被控訴人と再び一緒になることが望ましいと考え、離婚届書を役所に提出せず、控訴人甲野太郎に対し、控訴人乙村キクと別かれるように説得していたものである。

(6)  について、争う。

二、控訴人ら

(1)  控訴人甲野太郎は、調教師でなく厩務員いわゆる馬丁の職にあるが、昭和四七年一月七日落馬事故に会い、頭部骨折のため、現在事実上失職状態にあり生活は控訴人乙村キクの内職により細々と暮している状態である。調教師や馬丁が競走馬を所有することは禁じられており、控訴人甲野太郎は競走馬を所有していない。

(2)  控訴人甲野太郎が、昭和二一年九月ごろ、外地で知り合った女性と一緒に帰国したのは、次のような事情によるものである。

控訴人甲野太郎は昭和二〇年七月上海で現地召集を受け地下工作員の職に従事していたところ、日本国の敗戦によりソ連軍の捕虜となったが、途中脱走し新京まで逃走し、同市内で身分を隠して生活していたところ、日本人の四五才位までの独身男性がソ連軍の捕虜として連行される事態が生じたので、これを防ぐため、やむをえず、たまたま知り合った熊本県出身の女性と同棲し夫婦のように見せかけるとともに病人のように装い昭和二一年九月ごろ病院船で博多に帰国したものである。帰国後、右女性の実家に二週間ほど世話になったがその後同女性とは何らの関係はなかった。

(3)  被控訴人は、控訴人甲野太郎が帰国後被控訴人に落ち着き先も知らせず、被控訴人において八方手をつくして夫である控訴人甲野太郎を探がし昭和二三年ごろ久留米市で同控訴人を探がし出して同居生活に入ることができた、と主張するけれども、控訴人甲野太郎は、帰国後、長崎県の被控訴人の実家に赴いたが、被控訴人は長男一郎(当時一一才)、長女咲子(当時二才)を実家に置いたまま、二男二郎(当時五才)を連れて東京に在住する被控訴人の妹婿丙川春男方に行っているとのことであったが、同控訴人としては、金銭もないため、北海道日高の友人の馬を九州で売却したり、あるいは自ら騎手として九州地区内の競馬場を廻り被控訴人の帰宅を待っていたところ、昭和二二年春ごろ被控訴人が東京から帰ってきたことを聞き及び被控訴人の実家に赴き被控訴人に会うと同人はまた東京に行くというので、その理由を問いただしたところ、東京に男性がいるというのでこれと別かれるよう説得し、被控訴人もこれを納得して実家で同居するようになったが、同控訴人としては、被控訴人の実家に甘えることもできなかったので被控訴人や子供三人を実家に残こし騎手として九州地区で働き、ある程度蓄えもできたため同年八月ごろようやく久留米市内で家族と同居できるようになったものである。

(4)  控訴人甲野太郎が昭和四五年三月一一日被控訴人を殴打し、被控訴人が家出した事情は次のとおりである。

控訴人甲野太郎は、昭和三〇年ごろ、騎手を辞め長崎県雲仙で観光案内業をはじめることとなり被控訴人に転居同行を求めたが拒まれ単身雲仙に赴いたが、その後も被控訴人にたびたび雲仙での同居方を求めたが被控訴人はこれに応ぜず、その理由を調べてみると被控訴人には丁村某という男性のいることが控訴人甲野太郎との同居ができない理由であることが判明した。控訴人甲野太郎は、昭和三八年ごろ、右観光業をやめ、再び騎手としての生活に戻り、昭和四三年ごろからは被控訴人と姫路市で同居することとなったが、昭和四五年三月上旬ごろ、被控訴人から「娘や孫二人と一緒に旅行したい。娘もお母さんと一緒に行きたいといっている。」との申出があったので、片山津温泉に旅行することを許したところ、その旅行中の同月一〇日ごろ娘婿から「妻は旅行に行っていない。私が被控訴人に招待旅行の券が二枚あるのでお父さん(控訴人甲野太郎)と一緒に行ったらどうかと話した」と伝えてきた。しかるに、被控訴人は、同月一一日夕方旅行から帰って来て控訴人甲野太郎に対し「子供を連れて旅行なんか絶対にするものではない。ああきつかった。」と馬鹿にするような虚言を吐いたので、憤慨やるかたなく、被控訴人の顔面を二回殴打したのであり、なお後日右の旅行には前記丁村某と一緒に行っていたことも判明したのであって、被控訴人が控訴人甲野太郎から右のような仕打ちを受けたとしても、その原因はすべて被控訴人にある。なお、被控訴人は家出の際、控訴人甲野太郎が馬主に渡すべく保管していた金三〇〇万円ほどの金員を持ち逃げしている。

(5)  控訴人らが同棲生活に入ったのは次のような事情によるものであって、同人らにおいて控訴人甲野太郎と被控訴人との婚姻関係は解消したと信じたからであり、この間に被控訴人の妻の権利を故意に侵害したものではない。

控訴人甲野太郎は、被控訴人が家出した後、事由の如何を問わず同人を殴打したことの非を考え、被控訴人に帰宅するよう説得したが、被控訴人はこれを聞き入れず、同年五月ごろ、前記丙川春男を通じて被控訴人の署名押印のある離婚届書を持参させ、控訴人甲野太郎に対しこれに署名押印するように強引にせまったので、同控訴人においても、やむなく、被控訴人と離婚することを合意し、同届出書に署名押印した。控訴人甲野太郎においては、これにより、右離婚届書は役所に提出されて、被控訴人との離婚が成立したものと考えていた。その後、控訴人甲野太郎は、一人で生活することも不都合であるため、知人や長男の仲介で、同年八月、控訴人乙村キクと見合いをし、同控訴人も控訴人甲野太郎と被控訴人との婚姻が解消されているものと信じて、翌昭和四六年四月八日、控訴人らは同棲生活に入ったものである。ところが、同年五月上旬ごろ、厩務員の保険手続をするため戸籍謄本を取り寄せたところ、控訴人との離婚手続がなされていないことが判明した。

(6)  被控訴人は、控訴人甲野太郎と婚姻同居中、前記のほか訴外Aらと不貞関係にあったこともあり、控訴人甲野太郎と被控訴人との夫婦関係は、被控訴人の自責行為により破綻をきたしていたものであり、夫婦とは名ばかりであり、控訴人らの行為は妻である被控訴人の権利を侵害する不貞行為とはとうていいえない。

(証拠関係)≪省略≫

理由

一、被控訴人は昭和一二年一月二五日控訴人甲野太郎と婚姻し現在にいたっていること、両名の間には昭和一一年一二月一六日長男一郎が、昭和一七年四月一九日二男二郎が、昭和二〇年二月二八日長女咲子が出生した事実は被控訴人と控訴人甲野太郎との間においては争いがなく、被控訴人と控訴人乙村キクとの間においては右被控訴人主張事実を同控訴人において明らかに争わないのでこれを自白したものと看做す。

二、控訴人甲野太郎がかつて騎手であったこと、同控訴人が昭和二一年他の女性と帰国したこと、同控訴人が昭和二二年ごろから福岡県久留米市で被控訴人と同居をはじめたこと、同控訴人が昭和三〇年ごろ単身長崎県雲仙に赴き観光案内業をはじめたこと、被控訴人と控訴人甲野太郎が昭和四三年ごろから兵庫県姫路市で同居していたこと、同控訴人が被控訴人を右同居期間中殴打したこと、被控訴人が昭和四五年三月ごろ家出をしたこと、控訴人両名が昭和四五年七月ごろから交際をはじめ、昭和四六年一二月ごろから同棲生活に入り現在にいたっていること、訴外丙川春男が控訴人ら方に離婚届の用紙を持参し控訴人甲野太郎がこれに署名押印した事実はいずれも当事者間に争いがない。

≪証拠省略≫をあわせ考えると、次の事実が認められる。

(イ)  控訴人甲野太郎は昭和一〇年ごろから旧満州国奉天市で被控訴人と事実上の結婚生活に入ったが、昭和一一年ごろから仕事の関係で旧中華民国上海市に単身転居し、同所の「○○」という飲食店の女性と三か月ほど同棲したり、あるいはたびたび接客婦その他の女性と関係をもち、昭和一四年八月ごろ被控訴人が上海に控訴人甲野太郎を訪ねたときには、妊娠させた女性と同居していた。

(ロ)  控訴人甲野太郎はその後現地で応召となり、旧満州国で終戦を迎え、ソ連軍の捕虜となったが逃走して新京で熊本県出身の女性とかつて軍籍にあったことを隠蔽するため百姓夫婦を装って同棲し、昭和二〇年九月、同女性と帰国し、熊本県の同女性の実家で同棲生活を続けていた。

(ハ)  昭和二二年三、四月ごろ控訴人甲野太郎は被控訴人と帰国後初めて再会し、同年八月ごろから久留米市内で同居し家庭生活をもったが、昭和三〇年ごろには単身雲仙に赴き昭和三八年ごろまで観光案内業をはじめ、この間雇傭した女子事務員と情交関係を結んだこともあった。

(ニ)  この間被控訴人は姫路市に転居し、昭和四三年ごろ控訴人甲野太郎も同居するようになったが、昭和四五年三月、他の男性と一緒に同控訴人に秘して旅行に出たと誤解されて殴打され、被控訴人は家出をした。

(ホ)  控訴人甲野太郎は、右のように被控訴人が家出した後、被控訴人の妹婿丙川春男から被控訴人との仲を元に戻すようすすめられたがこれを拒んだこともあった。その後控訴人両名は昭和四五年七月ごろ知り合って交際をはじめ、控訴人乙村キクは控訴人甲野太郎が被控訴人に逃げられて新しく妻を捜しているとの言を信じて同情し、将来の結婚を考えて交際を継続した。

(ヘ)  控訴人両名が右のように交際を続けているうち、控訴人甲野太郎は前記丙川春男から被控訴人との仲をもとに戻すようにすすめられたが、これを拒み、被控訴人と正式に離婚したいと申し出でたので、前記丙川はこれが申出でをやむをえないと考え、離婚届の用紙に同控訴人の署名押印を受け、被控訴人方に持ち帰りその旨を同人に伝えたところ被控訴人には離婚届を提出して正式に離婚する意思のないことがわかったので、ついに離婚届を正式に提出しなかった。

(ト)  控訴人甲野太郎は、丙川に右のように被控訴人との離婚届を依頼したので間もなく正式に離婚が成立するものと考え、控訴人乙村キクにも被控訴人と正式に離婚する旨を伝え、控訴人両名は簡単な挙式を行なって同棲生活をはじめた。

(チ)  ところが、昭和四六年一二月控訴人甲野太郎において控訴人乙村キクと同居する旨の住民登録をするにあたり、被控訴人との間でいまだ離婚が成立していないことが判明し、控訴人乙村キクもそのころこれを知ったが、控訴人両名は引続き同棲生活を続け現在にいたっている。

以上の事実が認められ(る。)≪証拠判断省略≫

三、右の事実によると、控訴人甲野太郎は、控訴人乙村キクと同棲する以前に被控訴人以外の女性と情交関係を結んだことがあるけれども、これらは遠くは本訴提起前二〇年以上前からのことであって、すでに古いことがらであり、その後控訴人甲野太郎と被控訴人とは同居して家庭生活を送っていることをあわせ考えると、右のような情交関係をもって不貞行為として控訴人甲野太郎に対し慰藉料の支払いを命ずべきほどの不法行為ということはできない。しかしながら、控訴人両名が同棲生活に入ったのは丙川春男に離婚届を託したことによって控訴人甲野太郎と被控訴人との間の婚姻が解消したものと考えたことによるものであるが、この間に控訴人甲野太郎においては右離婚届が受理されて正式に離婚が成立したかどうかについて確かめず漫然丙川春男に対し同控訴人の署名押印のある離婚届用紙を渡したことをもって離婚が成立したものとして控訴人乙村キクと同棲生活に入った過失があり、控訴人乙村キクにおいても右事実を容易に確かめることができたのに控訴人甲野太郎と同棲生活に入ったことは同控訴人と被控訴人との婚姻関係が解消されたことを信ずるにつき過失があったものというべく、さらにその後、控訴人両名において被控訴人との離婚が正式に成立していないことを知ってからなお同棲生活を続けていることは、故意又は過失によって控訴人甲野太郎の妻たる被控訴人の権利を侵害したものとして共同不法行為に基づきこれによって生じた損害を賠償する義務がある。

そこで、その損害賠償額についてみると、控訴人両名が同棲生活により被控訴人の妻たる権利を侵害したため被控訴人に精神的損害を与えたものであるが、被控訴人と控訴人甲野太郎との婚姻生活は、既に認定したとおりかなりの破綻をきたし、その後被控訴人は家出をし現在も控訴人甲野太郎との同居を求めていないことを考慮するとともに、そのほか本件にあらわれた一切の事情を考慮し、これが賠償額は金一〇〇万円とするのが相当である。

四、右によると、被控訴人に対し、控訴人らは各自連帯して金一〇〇万円並びに右金員に対する本件訴状送達の翌日である昭和四八年一月一二日から支払済みまで民法所定の法定利率年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。すると、被控訴人の本訴請求は右の範囲の金員の支払いを求める部分につき理由がありこれを正当として認容すべきも、その余は失当として棄却を免がれない。

五、したがって、原判決中右の範囲内で被控訴人の請求を認容した部分は相当(ただし、原判決主文第一項中「昭和四八年一月二一日」とあるのは「昭和四八年一月一二日」の明白な誤記と認める。)であって、この部分に関する控訴は理由がないけれども、右の範囲を超えて被控訴人の請求を認容した部分は不当として取消しを免がれず、この部分に関する控訴は理由がある。

よって、原判決を変更し、右の範囲で被控訴人の請求を認容し、その余を失当として棄却し、訴訟費用は第一、二審とも当事者双方勝敗の割合を勘案してこれを定め、なお、被控訴人勝訴部分にかぎり仮執行の宣言を付するのを相当と認めて、主文のように判決する。

(裁判長裁判官 久利馨 裁判官 舘忠彦 安井章)

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